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​献堂式について

祝祭劇「献堂式」より合唱曲WoO.98「若々しい脈動が」
(変ロ長調 アレグロ・マ・ノン・トロッポ・エ・ウン・ポコ・マエストーソ)

大島 富士子

 そもそも「献堂式」とはいったい何の事でしょうか。あまり耳にしない言葉ですが、それもそのはず、キリスト教の専門用語で教会に新しい堂が建った時に行う祝典礼拝式の事を指す言葉なのです。しかしながら、このベートーヴェンの曲は教会とはまったく関係がありません。実はウィーンにリニューアルされた劇場の杮(こけら)落しの為に書かれた作品なので、正しい作品名は「杮落し」、あるいは「劇場お清め式」であるべきですが、前者の題名の方が立派に聞こえ、後者の方が分かりやすい、くらいにここでは留めておきましょう。 

 では、そのリニューアルされた劇場とはどういう劇場だったのでしょうか。それはヨーゼフシュタット劇場と言い、現在もウィーンにて立派に演劇活動を行っている数々の劇場の中でも最古のものです。劇場ドイツ語と言う特別なドイツ語を使って演劇をする王宮劇場などとは違い、民衆の言葉でドイツ語が上演され、作品も民衆生活に近い内容のものが扱われているので、当時から現在まで絶大な人気を誇っています。私も中学生の子供たちを連れてこの劇場で演劇鑑賞を楽しんだ一人です。 

 1788年に劇場は建築され、1822年にリニューアルされることになりました。その時の杮落しの作品作曲をベートーヴェンが依頼されたのですが、それが1822年の9月の話で、杮落しはなんと翌月の10月3日。しかも依頼時にベートーヴェンは夏の保養地、バーデン・バイ・ウィーンに滞在中でした。そこには、現在はウィーンのオペラ座の前から出ているバーデン行きの市電に乗ると1時間くらいで行けますが、当時は馬車で半日はかかりました。せっかくの休暇中に依頼を受けて決して面白くなかったばかりか、1か月たらずで杮落しの作品を書けだと!冗談じゃない!と言ったであろうベートーヴェンの声が聞こえてきそうです。 

 実際、この祝賀式典日を動かす事は不可能でした。これはオーストリア皇帝フランツ1 世の洗礼名の日(今でも西洋人には名前がいくつもあり、そのうちの一つがキリスト教の聖人から取ったものが多く、その聖人名の日と言うのがカレンダー上決まっていて誕生日とは別にお祝いをします)だったからです。さあ、1か月で何とかしなくてはなりません。それは1か月かけて作曲すればいい、と言う事ではなく、2週間で作曲して、演奏家に練習させ、俳優たちとの合同練習も含めて1か月後に完成させなければならない、という事でした。

 そこで1812年にブダペストのペスト区でやはり劇場の杮落しがあり、その為に作曲されたベートーヴェンの作品「アテネの廃墟」に手を加えたものにしよう、という妥協案が出されました。作品番号113のこの作品に新たに序曲を作曲し、また今回演奏される「若々しい脈動が」も新しいテキストに作曲したものであります。さらに作品番号114の行進曲にも手を加えて挿入し、最後の曲であるバイオリンのソロとバレー付の合唱曲も新しく加えました。そうして作品番号124の「献堂式」ができ上ったのです。 

 テキストをリメークしなければならなかったのには理由があります。1812年の杮落とし作品はハンガリー王に捧げるものであり、それではウィーンのヨーゼフシュタット劇場の杮落しには都合が悪かったからです。もともとの歌詞を作ったのはコッツェブーという当時の王宮劇場の支配人で、彼はもう他界していましたので、そのテキストの変更を受け持ったのはマイスルというヨーゼフシュタット劇場の劇作家でした。マイスルは本職が海軍省の会計官でしたが、劇作家としても当時名を成した人です。ただし、その腕前は器用な職人肌の域を出ず、この「若々しい脈動が」のテキストも彼が書き直したものはベートーヴェンの音楽に合わない箇所があり、ベートーヴェンが自ら書き直したと言われています。

 この合唱曲は、ソプラノとヴァイオリンの魅力的なソロを伴い、「アテネの廃墟」の舞台に新しい神殿が現れたのを背景に歌われます。“ 喜びを持って踊れ、そして恩ある方々に花輪を投げかけよ”と合唱がクライマックスで歌います。『恩ある方々』とは他ならぬこの劇場のリニューアルの為に経済援助をした人々であり、杮落しでは恐らく貴賓席に招かれていたパトロンたちに向かって、合唱団が声を張り上げて感謝の意を表したのでしょう。400席ほどのこの劇場、初日はもちろん満員御礼の大盛会で、その後3日間に亘ってこの劇場祝典式は行われたそうです。

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​現在のヨーゼフシュタット劇場

(オーストリア ウィーン)

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献堂式歌詩

​大島 富士子 プロフィール

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 恵泉女学園高等部を経てフェリス女学院短期大学音楽科の声楽を卒業。ウィーン国立音楽大学声楽科とピアノ室内楽科に入学。1981年に同大学を卒業。卒業後は数多くのリーダーアーベントをヨーロッパと日本を中心に開催。1995年から5年間、ホセ・ヴァスケスの率いる「オルフェン・コンソート」のソプラノ歌手としてバロック音楽のレパートリーを広め、イタリアやオーストリアで演奏活動をする。

 ボンのベートーヴェン祭、リンツのブルックナー祭、ウィーンのイースタークラング祭などに出演。ボールドウィン氏より「シューベルト歌手」として認められ、女性ではめずらしく2009年にはシューベルト歌曲だけで一晩のプログラムを歌い、2010年には「シューマン歌曲の夕べ」をおこなった。ウィーン在住33年後、2010年日本へ帰国。

 著書「正しい楽譜の読み方 -バッハからシューベルトまで-」は2009年9月に現代ギター社より出版され、すでに6版に入っている。ウィーンでは、オーストリア国家公認法廷日本語通訳・翻訳者としても活躍していた。

大島富士子プロフィール
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